一時的なレーシックにおける後遺症ブログ:18年08月17日
結婚して数年経って、
平穏な連日を送っている今も、
ミーにはしばしば眺めている数枚の写真があります。
それは
お母さんと幼いミーが写った数枚の記念写真。
神戸の街角で、青い染め抜きの花模様の着物を着て、
微笑むお母さんのそばでにっこりしているおかっぱ頭のミー。
どこまでも広がる黄色い菜の花畑で、
花に顔をうずめている小さなミーと、
それを見守るお母さんの優しい笑顔。
長い一本の道を、
手をつないで歩いていくお母さんとミーの後姿…
子供の頃の思い出の横にはいつもお母さんがいて、
ミーはこんなにもお母さんに見守られて、
育まれてきたのだという実感が、いつも心を暖かくしてくれます。
でも子育てをしてみて
ミーは初めて気がついたことがあります。
それは、
お母さんとの思い出の数々を今日の日まで残してくれたのは、
そのフレームの中にはいない父だったということ。
不思議なくらい、今の今まで気がつかなかった…
娘が生まれて、
ミーがカメラを持つようになり、
アルバムを作ってみれば…
そこには、
娘を抱く夫、
娘をお風呂に入れる夫、
娘を娘寝かしつける夫…
ミーとの写真なんてまるでなくて、
これじゃ将来うちの娘はミーが育児放棄をしたと思うかなぁ…なんて
苦笑いしています。
写真という記憶の不思議。
フレームに存在しないという、存在感。
「気づくのが遅くなっちゃいましたね。お父さん」
でも間に合って、よかった。
今までずっと、ありがとう…
控えめな父の深い真心に、
ミーは心から感謝しています。
父のおかげで、
ミーもお母さんも幸せな思い出をいつまでも
抱き続けることができるんですね。